中間まとめ
というわけで、ここでひとまず現在までに行った全8回のワークショップと、それを巡る雑談などから考えたことをまとめておきたい。
第一回「片子が死なないで済む物語」参加者3名(自分を除く)。約1時間。3/26
第二回「片子を救う物語」「片子を活かす物語」参加者3名。約3時間。4/6
第三回「片子の家族の物語」参加者1名。約30分。4/15
第四回「片子の家族の物語」参加者3(経験者1名含む)名。約30分。4/16
第五回「村人の物語」参加者4名。約1時間。5/3
第六回「片子が自分の力で生きる物語」参加者3名。約30分。5/4
第七回「鬼と片子の物語」参加者4(経験者1名含む)名。約1時間。5/4
第八回「片子が自立する物語」参加者3名。約30分。5/5
第九回(雑談)参加者2名。約30分。
合計すると、24名の人と、8時間半ほどこの物語について話し合ったことになる。これを材料に何が考えられるだろうか。
1.
最初に、このワークショップを設計する前提となった認識をあらためて整理しながら記しておく。社会に箱庭療法を施すというのがこのテーマであったが、その目的として「私たち」という主体の傷を癒す、というようなことを書いた。これは、現在の世の中の言説と、過去にあった文化受容の問題をつなぐところから着想したものだ。私は美術大学を出て美術に関心をよせるなかで、文化におけるある葛藤のようなものに注目してきた。例えば現代美術という文化が社会に根付かず、どのように扱えばよいのか定まらないという言説がある。最近では美術館が表現を自主規制した、といった話が盛んであったりした。そしてこれを語る時に、今だに近代からの輸入文化であるという地点から語られることがある。このように、過去に輸入した表現文化をいまだにこの社会の文化としきれていないような感じがあった。そしてここには、語りにくい葛藤のようなものがあるように見えた。
過去に遡ると、この文化の葛藤はいたるところに散見された。こういうことをどう考えようかと、近代化について色々調べる中で、富永健一の近代化論を読んだ。彼は近代化を「経済的・政治的・社会的・文化的」という4つのサブシステムに分けて分析していた。先にあげたもののほうが普遍性があり受け入れやすく、文化的なものに近づくにつれ、それは受容の際に大きなコンフリクトを生むという。この「近代化による文化的コンフリクト」という現在においてはあまり語られなくなった主題が、どのように変化してきたのかが知りたくなった。これは今では他の言説や語りにとってかわられたけれど、それは社会的な語りの主体が失われたことによって、個人的な問題にすりかわってしまっただけではないか、という気がしていた。
また、この文化的コンフリクトの歴史という観点から美術史や文化を眺めると、色々な出来事がここに位置づけられるように思えたのは、私にとっては一つの発見であった。こうした目で過去を見ると、この葛藤が明治頃には主に文明論として語られており、戦後からは主に個人の問題として語られるようになっていくように見える。例えば非常にざっくりと、明治頃には萩原朔太郎が文明論を書いたり、戦後にはいかに個を確立するかが問われる中で、岡本太郎は近代的な自我(西洋的父性)を日本史に求めた結果として縄文にまで遡ることになったのだろうと思う。
こうした変化は身近なところでも未だに続くものとして感じることがある。私の祖母は家制度の名残から都会に出ることができなかったそうだし、父親はその家庭の影響を私に語ってくれた。
このように考えてゆくと、河合隼雄が「片子」を見つけた事実も面白く思う。合理主義を身につけ、西洋の心理学を学んだのだけれど、それを日本ではそのまま適用できずに、日本人の精神というものを日本文化の中から考えはじめた中で見つけられ、複雑な変化の中で葛藤する自己に重ね合わされた物語だからだ。
こうして考えてゆくと、「片子」という物語はこのような「異文化受容の物語」に見えてくる。そして「近代化による文化的コンフリクトの物語」として捉えなおすことができるようにも思う。そう捉えるなら、鬼とは「西洋文化・文明」のことになる。私はこうした流れの中に、この「片子」という物語を位置づけ、これを現代の地平から語りなおしてみたいと思った。そうすることで、この長い葛藤の歴史に新しい語りの出発地点を作ることができるのではないかと考えたためだ。そして、それは多くの表現が関わっているものの、未だに位置の定まりきらないこの問題をいくらか解消するのではないかと思った。
そしてその為には、私1人の言葉では意味がないように思えた。このようなモノローグではなく、本当に片子が現代の社会でも意味を持ちうるモチーフだとするなら、この姿を色々なまなざしから描き直すことができると思った。そうすることによって、ただ個人の問題となってしまったこの葛藤を、「私たち」という主体から語りなおし、「私たち」の物語としての表現を与えることができるのではないかと思った。
2.
ということで非常に前置きが長くなってしまったけれど、まずは以下に、一連のワークショップで描かれた片子にまつわる物語上の設定を整理してみようと思う。昔話では語られていなかった、新たに生まれた状況や可能性を描き直してみたい。
*
「片子」
片子は村にとって異物であり、厄災を村に呼び込むものとして扱われている。彼が人間の村で生き残る為には居場所が必要であり、それには何らかの役割を担わなければならない。しかし、その役割は村にもともと存在しないので、片子という特殊性を保ったままではそのまま村に居場所を得ることは難しい。そこで、何らかの事件や、外からの刺激が必要になる。これによってはじめて、片子が片子であることによる役割が生まれる。
村人にとって片子は鬼を引き寄せるものであり、同質性を破る不調和と危機そのものであった。しかし半分は人間であることから、これを受け入れようという同情心もあった。しかし彼に同情することは自らを危険にさらすことであり、個人にとってはそのことによって集団から自分も締め出される危険を伴う。両親もまた、これを呼び込んだ厄介者として扱われている。片子はこうした不調和の関係性に居場所を失い身を引き裂かれていた。
こうした不調和の中で、片子が片子として担いうる役割。それが、自己犠牲によって両親を含む村の同質性を守るという「自殺」であった。これによって片子は自らの役割を全うし、見事鬼を退けた。
彼の死がどのように弔われたのかはわからないが、これによって村人たちは自らの罪悪感を帳消しにし、「仕方がなかった」と、片子の苦しみという悲劇と厄介ごとを忘れ去ることができたかもしれない。これを物語にし、自分たちの目線からの(都合の良い)物語として語り継いだのかもしれない。
では、自殺しない場合はどうだろうか。片子が村に受け入れられる為には、片子の特殊性が解消されなければならない(片子の類話には、ツノがとれることによって村になじんだという物語がある)。それが不可能である場合はどうか。村が全体として、片子としての彼を受け入れる場合には、いずれやってくる鬼との関係が問題になる。ここで、片子には鬼と人間の間に立つ「交渉役」という役割が生まれた。これによって片子は鬼と人間の間に自立することができるかもしれない。しかし、これが失敗した場合には、彼はどこかへ隠れなければならないか、さもなくば殺されることになる。もしくは、父親を殺しにゆく復讐者としての運命が待ち受けているかもしれない。
*
ひとまず現代に生きる私たちからこの昔話を見ると、片子が死なない場合にはこのような可能性が浮かび上がってきた。話し合いの中で、昔話には描かれなかった様々なifの物語が描かれ、それによって片子の生存の条件や、想像される結末などが確認されていった。
まずこれをもとに、大胆に「近代化による文化的コンフリクト」の物語と読み替えてみる。そしてワークショップでうまれた表現を用いながら、これについて考えてみたい。
2-1.
まず、上でも書いたように「鬼=西洋文化」としてみる。すると、片子は「半西洋化したもの」となるだろう。そうすると、両親や村はそれを受け入れる母体になる。つまり以下のような読み替えが可能ではないだろうか。
鬼=西洋文化
片子=近代化の途上にある、半西洋化したもの
両親=それを受け入れようとする意識、葛藤(個人)
村=日本(非西洋諸国・受け入れる主体)
そして、ざっくりとこれを先ほどの物語に代入してみると、どうなるだろうか。
*
異文化とは、それを受け入れる社会・文化にとっては異物であり、厄介ごとであり、脅威でもある。
片子とは、半西洋的なもの。これを例えば西洋化された文化としてみよう。これが生き残るには村(日本)に居場所と役割が必要であるが、もともとその役割は村にはない。これがうまれるには、何らかの事件や外からの刺激・変化が必要となる。それがない場合には、完全に村(日本)に同質化する必要がある。
彼の扱い方によって、いくつもの物語へと派生する。村がこれを異物のままに積極的に受け入れようとする場合には、片子には鬼と人間の間に居場所と役割が生まれた。異物でない同質のものとして受け入れるには、片子が鬼性を失う必要があった。村がこれを受け入れず、両親のみが受け入れた場合には、片子は自殺してしまった。両親も受け入れない場合は、片子は鬼の世界に止まることになる。
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ここでさらに、これを主に芸術文化の受容の物語として捉えてみると、どうなるだろうか。
世界が近代化する中で、外圧によって西洋文明・文化を輸入した日本社会。これは基本的には、村が積極的に異物を受け入れようとしたケースだろう。外からの脅威という要因があり、ここで片子には両者を繋ぐ役割が生まれた。
しかしここで先に書いた富永健一の近代化論に従うのなら、技術など普遍的な知識についてはスムーズに受容が進むとある。これは鬼性の少ない(例えばツノのない)片子を、村が同質のものとして受け入れたとういことになるだろう。コンフリクトのより強いもの、つまり文化的なものとは、より「鬼的」な姿をしている異物感の強いものということになる。この文化的な片子は、どのような受け入れ方をされただろうか?
昔話の中では、母親は嘆き悲しむだけで、具体的な行動は片子の言葉に従うだけであった。そして結果として鬼は退けられ、村は変化しなかった。これは異物の消極的な排除ではないだろうか。そしてここには、変化や異物に対する、集団の言葉と記憶の忘却があるように思う。
ここで1つ付け加えたい視点として、西欧との対比をあげたい。西欧の昔話の中で、このように異質なものとの関係を描いた作品では、これを殺してしまうという物語が多いそうだ。私が調べた中でも、構造として片子と似た物語で、これを殺してしまうものがあった。
(チェコのバラードで、Vodnikという水の精霊の物語を見つけた。これは、母と娘の家庭があったが、その娘がVodnikにさらわれてしまい、二人の間に子どもが生まれるという物語である。これの結末は、母親が娘をかたくなに守ることによって、子どもはVodnikに殺されてしまうというものであった。この物語は明確に殺すというよりは自殺に少し近いかもしれない。東欧に向かうとこのような傾向があるのだろうか?また、より西側のおとぎ話などでは、主人公が化け物を殺すことで、これにかかっていた魔法が解けて娘があらわれ、それと結婚する、といった物語も多いそう。ざっくりと西欧では、と言うけれど、西欧の中でも様々な違いがあって面白い)
異文化を受け入れる際の物語としてこれらを見ると、西欧ではこれを殺してしまって、自分たちに完全に従わせたり、同質化させたり。あるいは完全に排除したりという作業をしていると捉えられないか。実際にヨーロッパの国やアメリカなどを見ていると、異文化を積極的に受け入れているものの、はっきりと自分たちのルールのもとでこれを理解している。日本では、西洋のような受け入れ方を理想としているけれど、その厳しさのようなものはあまり語られていない気がする。日本ではこれが自殺という受け入れ方になっているのだけれど、これを考える為にもまずはこの違いをもうすこし理解したいが、ひとまず私の知識で話せるのはここまで。
殺すことと、自殺に追い込むこと。これらを異文化の受容(と排除)の方法ととらえるなら、両者はともにルールに従わせることではないか。違いとしては、殺すこととはルールを明示して従わせること。自殺に追い込むこととは、ルールを暗示して従わせること。あるいは、意図的な殺害と、無関心による殺害、となるだろうか。
ワークショップで新たに作られた物語では、片子の自殺しない受け入れ方や生き方について様々な可能性が語られた。しかし、例えば村が片子を受け入れる際にも、積極的に鬼を排除するといった物語や、両親や村が強く片子を受け入れようとするといった物語はほとんど生まれなかった。そして「自殺は救いではないか?」「自殺という選択も一つの自立では?」という疑問が非常に多く出たことも印象的であった。これを、こうした本質的な変化はそれほど明確に起こっていないと解釈することは強引すぎるだろうか。
2-2.
次に、この物語を現代につなげるために、第三回「片子の家族の物語」でうまれたアイデアについて、話を進めてみたい。第三回は、鬼が人間の村にやってきて、鬼と女房と片子の三人で暮らすという物語が作られた。そうして世代を経るにつれ、片子がたくさん生まれ、片子がマイノリティではなくなるという物語がつくられた。
ここで語られたのは、「片子=欧米化した日本人だとすると、片子のユニークさには無理があるのではないか。なぜなら、片子がマジョリティになった時、それはユニークさを失う」といった内容であった。
片子がいつ作られた物語かはわからないが、そこから数百年ほど経った現在では、ここで作られた物語のように、私たちは幾世代経たのちの片子なのだとしてみる。そう考えてみれば、現代は確かになんとかしてそれぞれが個性的な存在であることを認めようとする力が働いている。つまりは積極的に「片子」であろうとしている社会と言えるかもしれない。そう考えるならば、むしろ「片子でない人間は、はやく片子になれ」というような言説が主流にも思える。
ここで現在の社会について視点を戻してみると、確かに個性を重視している現在の社会だが、同時に非常に没個性的だという言説もある。例えば新社会人がリクルートスーツで同じ姿をしていたり、大学生が同じ姿をしていたりする写真が話題になる。しかし自分なりの一張羅である銀色のスーツで就活をする若者はいないだろうし、それを採用する人事も現実にはいないだろう。さらにこうしてSNSなどを見てみると、ただの職業や趣味や生活レベルの差を個性やアイデンティティと言いはっているようにも見える。まさに、片子たる所以であるユニークさを称揚する言説の上で、同時にユニークさを失っている姿があるのかもしれない。こう書くと、ユニークでなければ存在できないアイデンティティなのに、それを万人がまとっているという矛盾した状況であり、実はすでにその基盤は失われているという何とも危うい姿のようにも思える。これなんか、少し考えてみると面白いかもしれない。片子だらけの世の中では何が問題になるだろうか?第三回では片子を受け入れた村と人間だけの村に分裂するという物語になったが、これはなんとも示唆的な物語かもしれない(夫が自殺してしまった物語も!)。
3.
最後に、少しだけ現在の話につなげてひとまずのまとめとしたい。現代ではインターネットもあり、色々な選択肢がお金で買えてしまう時代にあって、どの文化的なスタイルを選ぶかは今日着る洋服を選ぶようなものかもしれない。それは異文化とそれを受け入れる集団という対比が、個々人の選択に還元されてしまったということではないだろうか。しかし、最近ではナショナリズムや民族主義が台頭しつつあるといった話も盛んである。これは片子が増えすぎたことによって、村の人間たちが団結しはじめたと捉えられるのではないか。では、私たちが直面している問題とは、一体何なのだろうか。
かつて社会的な構造の問題として語られてきたことが、個々人の自由な選択に還元されてしまっているとするなら、文化的な近代化という主題も、社会の問題から個々人の選択といった問題へと還元されているのではないか。例えば、かつて洋の東西で葛藤していた作家たちがいたが、現在では美術作家として生きるには、そのまま欧米文化圏などに直接所属し、そこで生活するという選択肢もふつうになった。あるいは国内での未熟な市場や制度に不満を持ちつつやっていったり、この社会に特化して適応するという選択も自由である。では、これは個人の選択でしかないのだろうか?しかしこれは、個人の選択肢そのものが社会的な要因によって「箱の内側から見るように」制限されている以上、社会の構造的な問題としても語ることが必要ではないかと思う。これはつまり、文化とは何か?という問いそのものであるように思う。そしてそれは、この状況で人と人が何か文化的な価値を中心に共同することは可能か?という問いでもあり、これに対する私なりの解答を探している。
美術館の表現規制といった問題も、個々人がリスクを回避する為に起こる結果であると思うのだけれど、そうであるならばこれは個人の責任のみの問題ではないだろう。また、政治的な態度表明といった表現にあっても、方法論などは様々に取り入れつつも、ここにも参加や受容において葛藤があるように見える。制度や科学技術などの面においては近代化したものの、文化や精神といったものはコンフリクトの内に違う道すじを辿ったのだとすると?制度と個人の間にある、この葛藤へ適切な表現が与えられておらず、語りにくいものとなってしまっているように私には思える。こうした状況では、社会が共有しうる文化的な対話の場とは一体どこにあるのだろうか?こうした状況を、物語の中で考えることもできるだろうか。そして、「私たち」の物語として語ることは可能だろうか。
また、今回「鬼=西洋文化」としたけれど、それは現在私たちの生きている時代が西欧を中心とした大きな変動の先にある時代だからで、これがかつては中国だったり、地域や年代によっては様々なものであったのだろうということは、一応つけ加えておく。現在国際社会は西洋主導のルール下にあるので、非西洋諸国には文化的にこれに同質化するかどうかという葛藤があった。ここではむしろ、国際的に見ると非西洋諸国(や後進国)こそが片子という視点がスタンダードとして成り立つ。西洋での片子的なものの扱われ方を探り、そこにこの日本的な片子を位置づけてみることも面白いかもしれない。
ということで、ワークショップをやる中で生まれた疑問やアイデアについて、つらつらと書き綴ってみた。まとめるどころか、疑問ばかりが増えて疲れてしまったのだけれど、ひとまずこれを第一部として、第二部は作品としてこれらを素材に何かひとつ作ってみようと思う。
ここまで書いて、ワークショップ自体の反省点、改善点といったものを書き忘れたことに気が付いた。ワークショップを進めるなかで見えてきたことも多く、これを含めて機会があれば、今後あらたな形式でやってみたいとも思う。
以下、ここまでで作られた物語をおおまかに一覧にしてまとめたもの。異文化を受け入れる際に人が取りうる行動は実に様々であり、このどれもが解決策であり、すべて特殊な一例なのだろう。
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第一回「片子が自殺しないで済む物語」
鳥と友達になる(人間以外の生物と暮らす)。
家族でどこか違う村へ引っ越す。
出家する。
台風がやってきて、暴風により大木が倒れる。倒木の下敷きになりかけた地元権力者の息子を、片子が鬼の力で救う。それにより村に居場所を見つけ出し、幸せに暮らした。
そもそもはじめから村人が片子を受け入れる。
両親が死ぬことによって村人からの干渉がはじまる。両親を失った幼い片子は、家で空腹で倒れている。そこに年長者が村人に隠れておにぎりを渡しにやってくる。年長者は自らの過去(両親を失ったなど)を片子に語り、次第に両者は打ち解け合う。そして片子は村に居場所を見つけてゆく。
旅に出る。自分以外のマイノリティと出会い、見識を広げる。
ひきこもりになる。
鬼的なパワーを活かすことで役割を得る。隣村との戦争で活躍する。
いじめっ子の村人や両親に対して、自分の苦しさを表明する。
両親がもっと働きかける。一家団結して村八分に対抗する。
片子がイケメンなら村に受け入れられる。
第二回「片子を救う物語」「片子を活かす物語」
村のはぐれ者と出会い、社会のはぐれ者としての生き方を学ぶ。
片子が自殺した後、鬼が村へやってくる。鬼は片子の死体を持って帰ろうとするが、両親はそれをくい止めようとする。その結果、片子の身体は半分に引き裂かれ、鬼は鬼側の半身を持って帰る。両親は残った人間の半身を手厚く供養した。
片子が鬼の強大なパワーで村を支配する
片子が神の使いとして祀られる。
片子が鬼ヶ島を支配する。
実は片子は月からの使者だった。
見世物小屋に売り飛ばす。あるいは義理父が興行士になる。
片子が女の子であれば売春宿へ。
村長の一人娘の体半分に青痣があった。片子が来た事によって遊び相手ができた。片子の存在によって隠されたマイノリティが外に出られるようになり、居場所を見つけられた。
片子が鬼的な強大なパワーを秘めていない場合は 津波がきて全員が死ぬ。
片子がヒーローになる。記録されるだけのことをやる。金太郎みたいにつよくなる。努力する。
武術を仕込む。習い事をさせる。1つのことに打ち込むことで、生きる目的を持つ。
仏門に入る。
旅に出て、別の片子と出会って、そこで子どもが二人生まれるが。しかし片方は完全な人間。片方は完全な鬼であった。一緒に暮らしていけないけれど、どうしていくかという物語。
第三回 「片子の家族の物語」
鬼と女房と片子で人間の村へ帰る。鬼は黙々と仕事をし、女房は村人を説得する。そうしているうちに鬼は村に受け入れられて、3人は幸せに暮らした。
そのおかげで居場所を失った夫は自殺する。
あるいは、居場所を失った夫は村のはずれで別の女性と家庭を築く。そうして村人たちは、鬼を受け入れた人間を中心としたコミュニティと、鬼を受け入れなかった人間を中心としたコミュニティに分裂する。
夫が片子よりも異様な物体を作り上げる。皆、異様さに驚く。そうしたら片子の異様さが、異様じゃなく見えた。それによって、もっと変なものを受け入れられるようになっていく。
鬼と女房が子どもをたくさん作れることにより、片子がマイノリティではなくなる。
牛と鬼の子とかいろんなものと子をつくればいい。
第四回 「片子の家族の物語」
夫が迎えにいかなければよい。
片子をおいていく。鬼と片子。人間の夫婦。という分裂。
女房が鬼を愛する。鬼との間に片子をたくさん産む。
女房がもっとしたたかに生きる。鬼ヶ島で強く生き抜いてゆく。
片子が鬼をとどめる。その隙に母を逃がす。悲劇の別れであるが、片子にはそれが、母にはそれが生きがいにもなる。人間の夫婦にもどった二人は、人間の子を産む。10年後、片子はそれを知るかもしれない。
片子と母親が二人で逃げだす。
夫が鬼の世界に行く。そして鬼の奥さんを見つける。新たな片子。
第5回 「村人の物語」
村全体で育てる。(親たちのネットワークの中で)
それができない場合は、孤児院に入れる。アメリカに行く。学者の下にやる。ひと目につか仕事をやる。など。
様子を見るしかない。ちっちゃいうちは村で隠して育てて、15歳とか自分で判断できる年齢になったら、自分で生き方を選ばせる。
村人が交渉役に立って、村で片子を育てるかわりに、鬼は危害を加えない、といった契約を結ぶ。(月に何度か会う、などの契約も)
鬼を祭りに誘い、平和的な関係を結ぶ。
交渉役が鬼に殺された場合は、直接恨みの矛先となる片子を逃がす。そのことによって交渉のできる状況が生まれ、地道な対話を続けてゆく。
第6回 「片子が自分の力で生きる物語」
片子が弟を欲しがる。弟が生まれ、兄弟は生き別れに。弟は鬼ヶ島に残り、兄は人間の村へ夫婦と帰る。
片子が鬼ヶ島に残りたがる。
お笑い芸人として生きる。
片子が鬼と人間の中立の立場に立ち、彼らの仲介をする。鬼を説得し、人間の村に自ら帰る選択をする。
第七回「鬼と片子の物語」
片子(もしくは女房)が悪党にさらわれることによって、夫婦(もしくは夫)が鬼と協力する。
第三者を仲介として、鬼と契約を結ぶ。片子や女房と鬼との面会時間を設ける。
第八回「片子が自立する物語」
ある時、村の浜辺に難破船が漂着する。中には異国の人が乗っていた(難破船にいる人はそんなに多くなくてよい。1人か2人でもよいい)。それを村人が助けてやるが、言葉も通じない。そこで村長のところへ連れてゆき、処遇について考える。そこで、片子のいる家が一時預かり人となる。そのうちに片子は彼らと打ち解け、異国人は舟を直し、片子は彼らと共に旅立ってゆく。
鬼と人間との真ん中ぐらいに立つ。