第七回「鬼と片子の物語をつくる」
5月4日
参加者:女性2名(20代)、男性2名(20代)、私の計5名。
時間:約1時間
展覧会会場にて出展者たちと雑談がてら少し物語作りをした。
***
グループ展の会場にて出展者たちと砂箱を囲みながら雑談。作品としてのコンセプトの話などをする。その流れで、少しワークショップをやることに。参加者の男性は第二回のワークショップ参加者である。
前回までの流れを説明し、今回のテーマは何にしようかと相談する。特に案はなかったので、昨日の流れから、片子に言葉を与えるべく「片子と鬼を中心とした物語」を作ろう、と提案する。
片子の心情について話し合われる。「片子がお母さんと一緒にいたかったから」片子は鬼よりも夫婦を選んだのだ、ということを中心に話が進む。
前回までに似た話が出ていたので、片子が鬼を説得すれば問題ないか?と問いかけると、「でも鬼は女房が好きだから追いかけてくる」「だから片子は自殺しなければならなかった」という話になる。
ここで参加者の男性から、この話は三者(鬼、女房、夫)の話でしかなく、片子は関係性の象徴である、という意見が出される。キルケゴールの「死に至る病」から言葉を引用しながら、関係についての話がしばらく続く。そこから村八分についての話んなどをして、現代社会ではどうか、という話などをする。実際に受け入れていなくても、受け入れるかたちをとると、それは受け入れているということではないか、という話など。
ここで、鬼が追いかけてくるということについて、物語の中で話すことを提案する。
女房、もしくは片子が、悪党にさらわれるというストーリーが提案される。そうした時に、夫婦、もしくは夫と鬼が協力するのではないか、と。しかし、その問題が解決すると再び元の状態に戻ってしまうので、一時的に問題を棚上げしているにすぎない、という話になる。
ここで、鬼と契約を結ぶという話が出る。夫婦が村へ帰ったのちに、鬼と片子や女房が面会する時間を設ける、というもの。弁護士を立てて、契約を結ぶといったアイデア。
そして再びワークショップ全体のコンセプトについての話題などへ。どのようにすれば正解なのか、といったことや、どういう流れが望ましいのか、という話などをする。どのような流れが理想といったものはないが、キルケゴールの話題が長く続き過ぎないほうが好ましいだろう、といった話などをして談笑。
最後に、片子という存在についての話が出る。片子は半分鬼として登場しているが、結局「全部鬼でも、変わらないのではないか?」という意見。つまり村人や登場人物は半身しか見ておらず、片子の人間の側がほとんど全く扱われないという話をする。人は特異な部分のみをクローズアップして見るということについて話す。「たぶん、人間がこの物語をつくっているから。私たちが鬼だったら、人間の側しかみない」といった意見もでる。
以下、つくられた物語やアイデア。
片子(もしくは女房)が悪党にさらわれることによって、夫婦(もしくは夫)が鬼と協力する。
第三者を仲介として、鬼と契約を結ぶ。片子や女房と鬼との面会時間を設ける。
***
基本的に雑談の回。興味深かったことは、「村人の物語」をつくった回とほとんど同じようなアイデア(第三者の仲介による鬼との契約)が提出されたが、参加者の中でのその話題のひろがりや受け止め方について大きな差異があるように感じた。これはワークショップへの参加のしかたや、対話のふくらみによって、同じアイデアでも異なる可能性を持ちうるということではないかと思う。これは日常的な対話の中でも実によくあることで、全く同じ内容でも表現方法が違うだけで受け止め方が全く変わってくる。これは対話というものを表現として捉えるならば、非常に重要なことかもしれない。雑談の中にも興味深いアイデアはいくつも含まれているが、それを膨らまし価値あるものにする為には、やはりある程度の形式が必要なのだろう、などと考える。
そう考えてゆくと、例えば作家の表現というのは、様々な非形式の体験をある形式に落とし込む作業であるかもしれない。であるならば、ワークショップなどの参加を必要とする形式にとって重要なのは、参加者が何に注目しているか、その場で何が中心に話し合われているかを察知し、それを膨らまし、時には対話の外側と結びつけながら、一つの経験へと導くことなのかもしれない。