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番外編「雑談」

5月6日

参加者:女性1名(20代?)、男性1名(30代?)、私の計3名。

時間:約1時間

展覧会最終日。前回のワークショップの様子を眺めていた鑑賞者と、展示を見にやってきた知人と、砂箱を囲んで雑談。ワークショップではないが、内容について色々な話がなされたので、これも記録しておくことにする。

***

 作品としての、このワークショップについて、あれこれと説明したり質問に答えたりしつつ色々と会話をする。ワークショップの形式や目的について話す中で「個人的なものが社会的なものとして話されることがイメージできない」という話が出たので、個人的な動機についての話などをする。父親が着物の職人であったが、こうした産業はもはやほとんど中国産などに置きかわり、長年経験を積んだ職人が時給600円ほどで働いている。しかしそのような扱いの文化がナショナルアイデンティティの一翼を担っていることへの疑問や(そういえばアニメもそうだ)、ハイアートとしての西洋美術史を学ぶ中でその扱いの定まらなさや、文化受容の問題などを知り、これらの折り合いについて昔たいへんに悩んだことがある。といったことなどを話したりする。

 「片子の家族の物語」の映像作品を見た人から「箱庭の外から言ってるから、色々な発言ができる。しかし箱庭の内にいる人には見えないだろう。選択肢がたくさんあっても、それは本人たちは気づかない」といった感想を聞く。なんとなく個人的な内面に触れるような語り口である気がして、注意深く聞く。作品としてのアウトプットの形式などについて話す。

 物語の中での「死」についての話などする。インドの死生観の話や、キリスト教の話など聞く。死ぬこと自体を問題とみるか、彼が死ぬまでに何をしてきて、死後どうなるか。自殺にどういう価値を置くかでワークショップの方向が変わるのでは、という話などする。

 ここで再び「外からしか言えないことがあるのでは」といった話がもう1人からでる。「ワークショップに参加する人が、自分がどういう人間か開示してやるといいのでは?」といった提案などを聞く。それについては考えているが、ワークショップはあくまで物語を作ることを中心にする、といった話をする。

 ここで、「私の持っている深層心理が箱庭にあったときに出たのかもしれない。最近そういうことを考えている」といった話がでる。ここを直接に掘り下げるべきか迷ったが、あくまで箱庭内での話を試みてみる。

 そして再びワークショップの話をする中で、片子の物語について話す。これを個人の内面の話ととらえるなら、自殺することで異物を排除するという話になる。西欧の物語ではこれを殺してしまう。これを生かすということは、異物を受け入れ続けるという状態の物語をつくろうとしており、外敵という脅威を受け入れるという難しいテーマになる。しかし解決策は無数にあり、これを物語の次元で話しあえるのでは。といった話などをすると、「外敵なんですね」と、ぽつりと発言があったことが気にかかる。

 個人的に考えていることと照らし合わせながらこの対話をしているようで、どのように答えようか迷う。外敵という言葉を使ってしまったのはまずかったかなあ、などと思い、鬼と女房と夫と片子。これらの関係を個人の内面の発達過程の中でとらえるとどうなるだろうか、など、内面のメタファーとしての物語といった話などをする。そして片子を異文化流入の物語として捉えるなら、非常に長いタイムスケールの中で常に変化している途上にあるといった話などをする。

 それから、河童の話などを聞く。河童は嬰児殺しの罪悪感を癒すためにつくられた物語という説があるらしい。片子も、実際に白人の子どもを殺したことを正当化するために作られた物語かもしれない、という解釈などを興味深く聞く。他にも近代以前の話をしつつ、こうした犠牲が、現在においては何かに置き換わっているんだろうなぁ、という話を聞く。これは少し具体的に考えてみたいところではある。といったところで、雑談おわり。

***

 ただの雑談ではあるが、重要な視点があったと思うので、これも記録することにする。気にかかった点は2つあった。1つは、ワークショップの参加者が個人的な心理を投影する可能性について。もう1つは、「箱庭の内と外」という考え方について。これら2つは同じ状況を指しているだろうと思う。

 1つ目は、実はワークショップを思いついた時から気になっていたことだ。もしも人が片子のように社会の異物として扱われているとき、このワークショップはあまりに無邪気な行為だろうか?と考える。しかしこのワークショップはあくまで美術の分野で行っており、本来の箱庭療法とは目的が違う。個人の心理の救済ではなく、むしろ個人の内に生じる困難さを大きな集団の物語という外側の次元で捉え、そこに表現を与え、更新することが目的である。つまり当事者の苦しみの表現ではなく、それをめぐる集団の言葉をつくることが目的なのだ。そのことによって、個人の内に生じるあるわだかまりのようなものを取り除くことができるのではないだろうか、という試みなのだ。だけれど、社会が与える困難さは個人のものであるから、個人の内面に表現を与えることが社会に言葉を与えることに繋がる。では、これはむしろ積極的に片子的な苦しみを抱えている人と行うべきワークショップなのだろうか?ところで、それは一体誰か?

 ここに、私は一つの仮説を立てていた。今回の第三回目のワークショップでも提案された「現代の人は皆、片子ではないか」というアイデアである。異なる価値観に引き裂かれているという自画像は現在において普遍的な状況だろうから、これは自分の置かれている状況をそのように意識していない人からも、物語作りを通して表現され得るのではないか、ということだ。しかし、ワークショップを実際に行ってみて、どうだっただろうか?

 この作品をめぐってワークショップの内と外で色々な話をしたけれど、この物語への捉え方は実に様々であった。箱の外側から話す場合がほとんどであったが、内側から話すこともあった。ここに、参加の度合いによって、様々なアイデアの違いがでる。わかりやすい例としては、第五回「村人の物語」の回での「片子を逃がす」というアイデアは内側からのものであろうし、何度も出てきた「片子を見世物小屋に売り飛ばす」といったアイデアは外側からのものだろう。外側からの参加は、あまりに自由だ。あらゆる可能性に飛躍し、簡単に片子を救うことも殺すこともできた。ジェンダーや国籍やマイノリティといった問題系を単純に投影し、いとも簡単に解決する。しかし、内側からの参加はどうだっただろう。それぞれが現在の自分の置かれている状況を投影したり、登場人物に憑依することで、内側から思考する。自分自身の問題を投影することもある。しかしそれは個別な特殊のケースへと枝分かれしてゆく。

 反射的に書いてしまったので、まだ整理できておらず、メモのような内容になってしまったので、ここで中断する。個人的にこのワークショップの行くすえについて考えてしまったので、とっちらかった内容になってしまった。これはまた整理し直す必要がある。とにかく、箱庭の内と外両面からのリアクション。このどちらの視点も現実にあることで、どちらも否定せずに置いておくことは重要なことと思う。むしろそれこそがこうした試みの一つの意義かもしれない。

 とにかく、ひとまずこれで今までのワークショップ記録は終わりなので、次回はこれを含めて記録全体について考えたい。


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